明治25年に当地、和歌山県有田郡金屋町糸野に生まれ、
日本でのフランス料理研究家の草分け的存在として著名な東 佐誉子先生について
ふるさと「糸野」をこよなく愛された先生の著書など、数々の資料に基づいてまとめてみました。
■東 佐誉子女史記念碑■ 昭和60年5月19日 佐誉子先生の十三回忌を機に生誕地に建立された記念碑。 柑橘畑の後方には有吉佐和子の小説にも登場する「有田川」が流れ、 東邸跡地の一角にたたずむ記念碑には 〜深遠微妙なる正料理道の変わりなき守護者たれ〜 という佐誉子先生の言葉が刻まれています。 また、故郷の「みかんの花の香り」を生前から深くたたえ、心から賞美された佐誉子さんは 紀伊山峡(やまあい)は約束の霊地(とち) 夢のごと花橘の薫(にお)う里 という一首を残しています。 ■若かりし日の佐誉子さん■ ▲大正15年 フランス留学より帰国直後 (糸野自宅前にて) ▲昭和3年 東京より帰郷 左よ母上たま、佐誉子先生、右端弟様 ▲昭和7年 日本女子大学校教授時代 ■フランス料理ひとすじ■ 日本ではまだ西洋料理が一般化されていない大正の末、政府派遣の留学生としてフランスに渡り パリの料理学校「ル・コルドン・ブルウ」を卒業された佐誉子さんは、 帰国後、母校(日本女子大学校:東京 目白)の家政科教授になられました。 また日本でのフランス料理の草分けの一人とされ、「世界の馬鈴薯料理集」 「フランス式魚貝料理法」などの著書があります。 ▲フランス語で書かれた佐誉子先生自筆の図解入りレシピ ▲大正14年 パリの料理学校「ル・コルドン・ブルウ」の卒業証書 ▲昭和31年 フランス料理調理実習会 神戸森女子短大(現在 森学園、神戸学院大学グループ)にて ■享年80才。孤独の死■ 生涯を料理道ひとすじに生き抜いた佐誉子先生でしたが 晩年の先生は、収入の道が途絶えた上、独身を通したため一人ぼっちの生活でした。 こうした佐誉子先生の生活を見かねた教え子や同僚ら三十数人が、金を工面して送りつづけ 先生が入院すると、見舞金は全国250〜60人から寄せられたといいます。 しかし、昭和48年8月1日 病状好転せず帰らぬ人となりました。(満80歳) ▲葬儀 告別式: 三鷹市禅林寺霊泉斎場にて 昭和48年8月8日 納骨: 和歌山県有田郡金屋町糸野墓地 永代供養 位牌安置: 和歌山県有田郡金屋町丹生 安養寺 戒名: 釋妙誉 |